仏教の経典に絶対性はない
2018/4/22 日曜日
終日雑務。30鉢ある植木の手入れや、メダカの水槽の掃除も。
忘備録。
キリスト教とは違い、仏教の「お経=経典」や「曼荼羅」は、バイブルではない。
脳の縛りを解き人生を輝かせるための脳トレ本であり、「算数ドリル」みたいな役割。 筋トレでいうならダンベルだ。
仏像も、身中に眠る広大な宇宙(空海は「識」と呼んだ)に思いを馳せるための装置であり、本来は拝む対象ではないと思っている。 それが開発された当初は、最先端だったかもしれんが、時代が進めばバージョンアップされて当然のものである。
だから、そのための道具そのものに絶対性があると信じ、必要以上の意味を持たせたり追求してはダメなのだ。それが仏教の論理矛盾を生んでいる気がする。
釈迦も月を指差しこう言った
「指を見るな、月を見よ」と。
「指」とはまさに経典や仏像である。
ちなみにブルース・リーの名言
「考えるな、感じろ」も
これをパクっている。
終日雑務。30鉢ある植木の手入れや、メダカの水槽の掃除も。
忘備録。
キリスト教とは違い、仏教の「お経=経典」や「曼荼羅」は、バイブルではない。
脳の縛りを解き人生を輝かせるための脳トレ本であり、「算数ドリル」みたいな役割。 筋トレでいうならダンベルだ。
仏像も、身中に眠る広大な宇宙(空海は「識」と呼んだ)に思いを馳せるための装置であり、本来は拝む対象ではないと思っている。 それが開発された当初は、最先端だったかもしれんが、時代が進めばバージョンアップされて当然のものである。
だから、そのための道具そのものに絶対性があると信じ、必要以上の意味を持たせたり追求してはダメなのだ。それが仏教の論理矛盾を生んでいる気がする。
釈迦も月を指差しこう言った
「指を見るな、月を見よ」と。
「指」とはまさに経典や仏像である。
ちなみにブルース・リーの名言
「考えるな、感じろ」も
これをパクっている。
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