無自覚のループ
2021/11/30(火)
午後、広テレにて某番組コーナーのレギュラーナレ収録。
さて、変異株オミクロンが騒がれはじめている。懲りないね。
今回のコロナ騒動で、この国のダメっぷりが余すところなく顕現した。
歴史学者の與那覇潤氏が指摘しているように、普段は日本のタテ社会や同調圧力を揶揄しながら、いざ政府が自粛を要請するや、妥当性をまったく吟味せずあっけなく追従した人がなんと多かったことか。
今ちょうどNHK朝ドラで、第二次大戦のビフォアアフターを描いているが、戦争に行けと言われれば我が子を差し出し、鬼畜米英と言えと言われれば我先にと唱和し、竹槍の練習に励んだ日本人のメンタリティと寸分も違わない。
ワクチン打てと言われれば打ち、副反応の有無で盛り上がると。
学者、知識人、ほとんどが論戦を避け、ただの太鼓持ちと化した。
個人的に残念だったのが、表現者、とくにロックミュージシャンからの異議申し立てが皆無だったこと。
日本人はいつまでこういう無自覚な反復を繰り返すのだろうね。

午後、広テレにて某番組コーナーのレギュラーナレ収録。
さて、変異株オミクロンが騒がれはじめている。懲りないね。
今回のコロナ騒動で、この国のダメっぷりが余すところなく顕現した。
歴史学者の與那覇潤氏が指摘しているように、普段は日本のタテ社会や同調圧力を揶揄しながら、いざ政府が自粛を要請するや、妥当性をまったく吟味せずあっけなく追従した人がなんと多かったことか。
今ちょうどNHK朝ドラで、第二次大戦のビフォアアフターを描いているが、戦争に行けと言われれば我が子を差し出し、鬼畜米英と言えと言われれば我先にと唱和し、竹槍の練習に励んだ日本人のメンタリティと寸分も違わない。
ワクチン打てと言われれば打ち、副反応の有無で盛り上がると。
学者、知識人、ほとんどが論戦を避け、ただの太鼓持ちと化した。
個人的に残念だったのが、表現者、とくにロックミュージシャンからの異議申し立てが皆無だったこと。
日本人はいつまでこういう無自覚な反復を繰り返すのだろうね。

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つながり感
2年半ぶりの京都
2021/11/21(日)
能の謡の師匠、杉浦豊彦先生の定期公演を観に、オタマと、新幹線の午前中の便で京都へ。
京都駅で名古屋在住のオタマの姉、Nちゃんと合流し、3人で平安神宮界隈を散策。
2年半前の春、やはり杉浦先生の定期公演を観に来た時は、目眩がしそうなほど桜がそこかしこに咲き乱れていたが、今回は紅葉だ。京都には歓迎されているな。
父方の先祖の系譜をたどってゆくと、500年〜400年前あたりまでは確実に京都に暮らしていたはず。どうにも不思議な既視感があるのだ。
午後からの京都観世会館での先生の公演演目は「松浦佐用姫」。能の中では新しい曲で、現 観世流宗家が数十年前に復曲されたそうな。
いや、素晴らしかった。生きてまた、ここにこれた喜びもあり、感慨ひとしお。
写真:平安神宮の紅葉

能の謡の師匠、杉浦豊彦先生の定期公演を観に、オタマと、新幹線の午前中の便で京都へ。
京都駅で名古屋在住のオタマの姉、Nちゃんと合流し、3人で平安神宮界隈を散策。
2年半前の春、やはり杉浦先生の定期公演を観に来た時は、目眩がしそうなほど桜がそこかしこに咲き乱れていたが、今回は紅葉だ。京都には歓迎されているな。
父方の先祖の系譜をたどってゆくと、500年〜400年前あたりまでは確実に京都に暮らしていたはず。どうにも不思議な既視感があるのだ。
午後からの京都観世会館での先生の公演演目は「松浦佐用姫」。能の中では新しい曲で、現 観世流宗家が数十年前に復曲されたそうな。
いや、素晴らしかった。生きてまた、ここにこれた喜びもあり、感慨ひとしお。
写真:平安神宮の紅葉

定期検診でCT検査
私の本分
現実とパラレルに在る異層世界を幻視する現代の「夢幻能」
2021/11/8(月)
連夜の歌い込みが続いている。
ライブの日程が決まっているわけでもないのに。
なにしろ面白くてしょうがない。
そう、例のオリジナル曲に能の一節を合体させる試行だ。
すでに3曲が形を成した。
また、その他の数曲にも、実験的に組み組んできた詩の朗読をさらに磨き上げ、完成の域に達しつつある。
演出のための各種小道具も入手。これも能からヒントを得た。
このスタイルで、たとえば45分程度続けてやったら、、、。
客は体験したことのない、現実とパラレルに在る異層世界を幻視するはずだ。
目指すのは現代の「夢幻能」。
なぜ能の力を借りるのか。それは650年前の古語で構成される能の謡の、ある種異様さに
私の楽曲の中の登場人物なり環境なりを呼び寄せる力があるのを確信したからだ。
今の音楽表現のほとんどがコンテンポラリーすぎ、私はリアリティを感じない。
しかも窮屈だ。
そんなことにずっと不満を感じてきた私の回答でもある。

連夜の歌い込みが続いている。
ライブの日程が決まっているわけでもないのに。
なにしろ面白くてしょうがない。
そう、例のオリジナル曲に能の一節を合体させる試行だ。
すでに3曲が形を成した。
また、その他の数曲にも、実験的に組み組んできた詩の朗読をさらに磨き上げ、完成の域に達しつつある。
演出のための各種小道具も入手。これも能からヒントを得た。
このスタイルで、たとえば45分程度続けてやったら、、、。
客は体験したことのない、現実とパラレルに在る異層世界を幻視するはずだ。
目指すのは現代の「夢幻能」。
なぜ能の力を借りるのか。それは650年前の古語で構成される能の謡の、ある種異様さに
私の楽曲の中の登場人物なり環境なりを呼び寄せる力があるのを確信したからだ。
今の音楽表現のほとんどがコンテンポラリーすぎ、私はリアリティを感じない。
しかも窮屈だ。
そんなことにずっと不満を感じてきた私の回答でもある。
